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〜飢餓を無くす為に〜南牧村ノ巻

次に向かったのは、南西部の山間に位置する、群馬県甘楽郡の『南牧村(なんもくむら)』。
新規就農2年目。
日本一の人口を誇る東京から、高齢化率日本一の自治体でもある南牧村へ移住し、無農薬・無肥料の自然栽培を広げようと営農している『イニアビ農園』さんにお邪魔しました。

今年度、イニアビ農園は自然農園まほらまと統合し、農地を拡大。
現在は、『自然農園まほらま』として営農されています。

お話をうかがったのは元イニアビ農園代表『田中 陽可(たなか ようか)』さん(27)。
ベジタブルジャーニー138件目の農家さんです^ ^



まずは田中陽可さんの生い立ちを聞かせてください。

東京の渋谷区で生まれて、19歳まで東京に居て、大学でアメリカに4年間留学。
卒業して、23歳になる年で帰って来て、世界一周する船旅のピースボートで通訳として2回周って。
また地元に帰って、半年間ぐらい通訳・翻訳を契約スタッフとして働いて、農業始めたくて南牧村に来たって感じです。
移住が24歳の時でした。

農家になりたかった理由って何かあったんですか?

僕『飢餓を無くしたい』って夢があって。
飢餓を無くすためにはどうすればいいだろうっていうのをアメリカの大学で勉強してて。
それを追求していく中で自然栽培が広がれば、飢餓の削減に繋がるっていう風に自分なりに結論付けられて、じゃあ農家になろうって。



自然栽培に出会うキッカケとは。

福岡正信(自然農法提唱者)さんですね。
YouTubeで興味あるかもって欄にたまたま出てきて、なんだこの人はって。
見てみたら自然農法って言葉を言ってて。
なんだこれはと思って、調べていくうちに自分なりに飢餓と結び付けられて。

現在やっているのは自然栽培ですが、自然農法をやろうとはならなかったんですか?

自然農法だと、流通に乗せるのに時間が掛かるなと思って。
哲学とか、頭でっかちなようにとらわれちゃうなと思って。
それよりも僕は自然栽培っていう生産性を重視したいし、流通に乗せてこそ広まるっていう風に思うので、自然栽培でしたね僕の場合は。

渋谷からなぜ大学はアメリカへ?

『緒方貞子』さんっていう方が居て。
国連の難民高等弁務官で働いていて、難民を助けてたり、JICAで青年海外協力隊っていう仕組みを考えた人なんですけど。
その人に高校生の頃、憧れて。
緒方さんの経歴を調べてみたらアメリカの大学院を卒業されてて。
当時自分は緒方さんになりたいと思っていたので、じゃあ同じ大学へ行って、同じ学部を専攻して、そこからだなと思って。
だから緒方さんがイギリスだったら、僕もイギリス行ってたし、日本だったら日本だし。
緒方さんは政治学部で、僕も政治学部へと思ったんですけど、20歳の頃に腸を切るような手術をして。
腸が繋がるまで、何も食べれない飲めない入院期間が10日間。
10日間何も食べないとお腹空くし、喉渇くしって中で、こういう思いをする人が居たらダメだなっていう風に本気で思って、飢餓という問題に興味を持って。
緒方さんは尊敬しつつ、そこから飢餓を無くしたいと思って。



なぜ緒方貞子さんにそこまで憧れるようになっていったんですか?

高校3年生の頃に、授業では扱わなかったんですけど、社会の資料集をみるのが好きで、たまたま緒方さんの記事が小さくあって。
国際法を破ったじゃないけど、ルールを破ってでも難民の人を助けたって事をされてる方で、カッコイイと思ったんですよね。
難民問題も特に興味があったわけじゃなくて、ただ緒方さんに憧れ過ぎたっていう。

留学する前って当然、英語が喋れる状態ではないですよね?

18歳で高校卒業してから、1年間は東京で英語を勉強しましたね。
ずっと英語の成績も2だったので、苦手科目だったんですけど、中学の英語の教科書に戻って、自分で勉強して。

実際1年間で習得できました?

いや、全然(苦笑)
でも(アメリカへ)行っちゃえば大丈夫だろうと思いつつも、やっぱりダメでしたね。
読める、書ける、でも話せない、聴き取れないっていう状況で。
最初の3ヶ月ぐらいはホームステイだったんですけど、全然言いたい事も伝えられないし、向こうも通じないイライラしているような雰囲気も感じて。
最初の1年ぐらいは最悪でしたね。
最終的には、不自由なく生活できてたんで、その切替りのタイミングは自分でも解らないんですけど、帰ってきてみると、行っちゃえば何とかなるんだなって感じですね(笑)



飢餓の問題であれば、日本は直接的に関係している気がしないのですが、なぜ日本で農業をやろうと?

アメリカの大学で勉強していく中で、飢餓という問題を勉強して。
先進国こそが僕の中では問題を持ってるなと思っていて。
例えば、アフリカにモザンビークって国があって、日本もなんですけど、アフリカのモザンビークの土地を先進国が買って、その土地でトマトやトウモロコシを栽培して、自国に輸入してるんですよね。
でも、モザンビークでは3分の2の子供は栄養失調で亡くなってる。
それなのにモザンビークって国から食べ物が先進国に出て行ってるっていう。
なぜ飢餓がある国から食べ物が出て行ってるんだろうって。
買うのは日本含め、全て先進国なんですよね。
日本では日本国内で栽培された物を食べれば、モザンビークで栽培された物はモザンビークで食べられれば、飢餓の削減に繋がるんじゃないかなっていう風に思って。
先進国を変えないとって思ったのがキッカケで、先進国で農業をやろうって中で、自分は日本生まれだし、福岡正信さんも日本だし、やっぱ日本だなと。

農業の技術としてはどこかで研修などされたんですか?

してないですね、本だけでした。
木村秋則(自然栽培提唱者)さんの本はすごい参考にしながら、植物学の本とか、この雑草が生えれば土はアルカリ性でとか、どうやればこの雑草無くなるんだろうとか植物学の本を観ながら。
自分なりにやって、失敗したり、成功したり。
1年目は野菜も80種類ぐらいやってたんですよね。
どれがこの土地に合うか、自分のスケジュールの効率とかを図りながら、今は絞って初年度よりはだいぶペースも分かってやりやすくなってきてますね。



農園名の『イニアビ』というのは。

アメリカの先住民の言葉でイニアビっていうのがあって。
アメリカに居た時に、友人が先住民の方と繋がりがあって、その友人と訪れる機会がありまして。
自分の名前が「陽可」なんですけど、それってどういう意味なの?って聞かれて。
太陽の「陽」で、可能の「可」。
太陽は「san」で、可能は「possible」って伝えたら、先住民の言葉で太陽の事を「イニアビ(iniabi)」って言うんだよって。
それは太陽って意味だけじゃなくて、「全ての生命体が頼る太陽」っていうのをイニアビって教えてくれて。
それがずっと頭の中には残ってて、農業ですし全ての生命体は頼っているわけで、そこから名前をつけました。

全国色んな所で就農受け入れや農地もあると思うんですが、南牧村へ来た理由とは?

川の上流がいいっていうのと、山に囲まれた場所がいいっていうその2つがあって。
普通、自然栽培って土作りで10年掛かるとかって言うんですけど、山に近ければ山の栄養が全部降りてくるなぁってところで、土作りは必要ないんじゃないかっていうのと、この南牧村の景色見て、山が近すぎるぐらい近いなぁって。
これは土作りしなくても、1年目から採れるなって思って。
それと南牧川が利根川の上流に当たる所なんですよ。
上流で農薬使っちゃうと、海を綺麗にしたいって人が活動しても、上流から流れてくる水が汚ければ、その人達の努力も無駄になるから、上流からは絶対綺麗な水を流したい、上流で自然栽培をやりたいって。
そこで上流の所を探して、上流と山。
それがたまたま最初に見つけられた場所がここで、南牧村にしようと。
群馬県自体も1度も来たことが無かったんですけどね。
初めて来て、もうここでって。





田中 陽可さんのこだわりって何かありますか?

2つ。
1つは、自然を壊さないって事ですかね。
農薬も使わないし、除草剤も使わない。
畑の外からの物は持ち込まないし、ここにある物も持ち出さない。

もう1つ、僕は別にお金持ちになりたいわけではなくて、なるべく安く自然栽培の物を売りたいんですよ。
値段が消費者の方にどうしても広まらない理由の大きな1つなので。
この村に居ると、自分の生活費ってすごい抑えられるんですよね。
一軒家で、家賃月5000円だし、畑も草刈ってくれるならタダでいいよって村の人の器量もあって。
自分の生活費が掛からないから野菜が安く売れる、ってところと、生産量が上がれば単価も安く出来る。
年収上げたくないんで、年収上げるくらいなら単価下げて。
そうすると八百屋さんでも消費者の人も買いやすくなって、消費者の人もたくさん買えると、八百屋さんも自然栽培の方が売れるんだなって、自然栽培をどんどん仕入れてくれれば、農家も自然栽培やろうかって。
そういう流れが欲しいなと思うので、こだわりとしては、『環境を汚さない事』と、『なるべく安く売れる努力をする』ってとこですかね。

最後に1つ質問なんですけど、お金は嫌いですか?

お金は好きです。
でもバランスは観ますね。
儲け過ぎてると思ったら、これ高いんだな、もっと安く出来るなっていう。
飢餓を無くしたいって想いがあるんで、広めたい。
広める為には、値段を安くっていうところが現代社会だとは思うので。
お金は好きですけど、執着心はないかもしれないですね。
最低限、生活できれば良いやって。





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〜記憶に残る野菜〜高崎ノ巻

ベジタブルジャーニー41県目の群馬県に入りました^ ^
群馬県は本州の山岳地帯にある内陸県で、温泉地とスキー場で有名です。
温泉地として有名な『草津』では、湧き出る源泉が木樋を通って滝壺へ流れ落ちる『湯畑』の光景を見ることができます。







そして、2014年に世界遺産として正式登録された『富岡製糸場』。







向かったのは、群馬県中部よりやや南西に位置する『高崎市倉渕町』。
夫婦2人で、無農薬・無化学肥料の畑で旬の野菜を作りながら、食用ほおずきを生産している『森農園』さんにお邪魔しました。

お話をうかがったのは、森農園代表『森 清和(もり きよかず)』さん(36)。
奥さんの『有理(ゆり)』さん(36)。
ベジタブルジャーニー137件目の農家さんです^ ^



(有理さん)
ここ倉渕町では、有機生産者団体で『くらぶち草の会』っていうのがあって、無農薬で農業がやりたいって思っている人が、経験がなくても研修させてもらえて、ちゃんと研修生が住む住宅もあって。
独立したら、出荷して販売する販路もしっかりある団体があるので、この辺は結構移住者が多いんですよ。
(清和さん)
意外と、『無農薬』ありきでの出荷団体っていうのがあまり無いので、結構やりたいって人が集まって来てるんですね。
なので、僕らのところ以外にもこの辺りでは無農薬のところが比較的多いかな。

なぜ『食用ほおずき』の生産を始めたんですか?

(有理さん)
もともと自家用としてやっていた食用ほおずきを、3〜4年前から本格的にやり始めたんですけど、それは所属している草の会に出荷ではなくて、森農園として始めたんですね。
食用ほおずきって原産地が南米のペルーなんですよ。
山岳地帯で標高が高い所でやっていて。
自分達がやってる意味とか、ここに居る意味を求めた時に、ここも標高差がわりとあって、畑が下は500m、上が900mぐらいあるんですけど、そこの土地性を活かせるんじゃないかなと思って、食用ほおずきを始めたんですね。
周りにも生産してる方があんまりいないし、美味しい上に栄養価も高いし、やってみたら面白いんじゃないかなと思って。
自分達らしさとか、この土地の特性とか、そういう事を活かした時に、総合的に考えたらほおずきになったんですね。



(清和さん)
最初は多品目の野菜とか、色々やってみたんですけど、この土地で僕ら『森農園』として、何か自分達らしい事をやりたいなって時に、食用ほおずきがビタッとハマったっていうのが1番の理由ですね。
いわゆる、都市近郊農家に多品目はどうしたってフットワークが違うから物流の面でも勝てないんですよね。
ここから街中に出るだけでも往復1時間以上かかっちゃうと、2人でやっててそこで人手が取られるとね。
だったら、ここにしか出来ない、そこでは出来ないものをやろうっていうのがありますね。



お二人の生い立ちを聞かせてください。

(清和さん)
生まれは長野県の松本で、うちは全然農家でもなく、強いて言うなら小学校くらいの時に小さな家庭菜園を手伝った記憶があるかないか、ぐらいの感じでしかないので、全然農業とは関係なくて。
高校を中退して、東京に行って、いわゆるフリーターで調理師をやってて。
その後、中古カメラ屋で10年近く東京に居て、妻と知り合って。
それで、妻が農業やりたいって言ったんで、資金を貯める為に1年間ぐらい妻の実家の方へ行って、働いて、この倉渕町の草の会に研修生として入って、そのまま独立っていう流れですね。
だから農業としては全く携わってきてないので、倉渕に来て0からスタートした感じですね。



(有理さん)
私の出身は、宮城県の塩釜市っていうところで、港の方なので山は無く、周りも住宅街で畑とか縁遠かったんですけど、大学は山形へ行って、建築関係を学んでいたんですけど、その時は若かった事もあって刺激を求めて東京に行って。
写真が好きだったので、東京で働きながらお金を貯めて行きたい専門学校へ行こうとフリーターをやっていたんですけど、なかなか東京って家賃も高くてお金が貯まらなくて、じゃあ働きながら写真に携われるような仕事がないかなと思っていたら、旦那が居たカメラ屋さんがあったのでそこで働いてて。
でもひょんな事で『食』から農業に興味持つようになって。
旦那の実家がすごく田舎でのんびりしてて、めちゃくちゃ良い所で。
例えば東京だと何か貰ったお返しは、『何かを買って』お返しするけど、田舎に行くと『自分達の作った物』、物と物との交換をしてるのも凄い良いなと思ったし、そういう事をみて「よし、じゃあ農業やろう」と思ってファームステイ先を探したのが、たまたま倉渕の農家さんで。



やりたかった農業は最初から有機栽培だったんですか?

(有理さん)
最初は有機とかじゃなくて、自然農法ですね。
そっちの方から入って行きました。

なぜ有機栽培になっていったんです?

(有理さん)
自然農法って本当に無施肥で、環境に良かったりとか、作物自身の力が強かったり色々と良い事はあるんですけど、多くの人の胃袋を賄う事は出来ないというか、たくさんは育たないというのもあってですね。
有機農業って言っても、堆肥作りをちゃんとしっかりしていないと、畑に良くない影響を及ぼしたりするやり方をしている生産者もいるんですね。
この倉渕町にいる生産者は、しっかり堆肥作りの勉強会などもして、より良い堆肥を作っているんですけど、うちは微生物を増やす為の土作りで、土自体を底上げしていくようにしてるので、極力肥料分も与えず『足りなければ与える』ぐらいの感じでやっています。
(清和さん)
現実的に色々考えると、産業としての自営農業なので、自分達が継続していかないとどうしょもないし、自分達の求める、先のビジョンがそこ(自然農法)に無かったってそんな感じですかね。



森農園として、どんな作物を発信していこうなど方向性はありますか?

(清和さん)
それは最大のテーマというか、『美味しい』っていう言葉は極力使わないようにしてて。
美味しいってある種、曖昧な言葉で人によっても違うと思うし。
なので、うちの理念として『記憶に残る野菜』って言い方をしていて。
だとすると味とかそういうものだけじゃない部分もあるのかなと思うので。
もちろん、味も自分達が気に入る物じゃなきゃ絶対に出さないっていうのもあるし、それにプラスして、畑の環境を知って食べてもらうのと、ただスーパーで買って食べるのって自分の中に残るものが違うので、その辺を大事にしたいなっていう、これからの課題でもありますね。



森農園のこだわりとは。

(有理さん)
美味しいもそうだけど、何を食べるかじゃなくて、誰と食べるかって1番大事に感じていて。
その時に誰と楽しく食事をしたかっていうのが、後々の記憶になると思っていて。
最後の晩餐で何を食べたい?って時に人によって色々あると思うんですけど、その中に私達の野菜が食材として携われたら凄く嬉しいなって。

(清和さん)
最後の晩餐に選ばれたいって言うとちょっと傲慢ですけど、そういうところに携わって残りたいっていうのと、ここ(森農園)のこれが美味しかったからこの子にも食べさせたいって次の世代にも残るようなっていうのは心掛けていますね。
そういう意味での『記憶に残る野菜』ってのが1番のこだわりなのかなって思います。





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